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けもの塾

ジャイアントパンダ

幻まぼろしの珍獣ちんじゅうジャイアントパンダの発見はっけん

「幻まぼろしの珍獣ちんじゅう ジャイアントパンダ」といったら、笑わらうかもしれませんね。日本にほんの動物園どうぶつえんに何頭なんとうもいるし、見みたいときはいつでも見みることができるからです。でも今いまから150年以上前ねんいじょうまえは、パンダという動物どうぶつがこの地球上ちきゅうじょうにいるということすら、現地げんちの少数しょうすうの人々ひとびと以外いがい、知しらなかったのです。

そのころの日本にほんは幕末ばくまつ(江戸時代えどじだいの末期まっき )。オランダの船ふねはもとより、ロシア、アメリカ、イギリス、フランスなどの艦隊かんたいが来航らいこうし、新選組しんせんぐみができたり、坂本竜馬さかもとりょうまが暗殺あんさつされたり、それは騒々そうぞうしい時代じだいだったのです。欧米おうべいの艦隊かんたいは日本にほんだけでなく、中国ちゅうごくなどにもやってきました。大航海時代だいこうかいじだいが終おわり、ヨーロッパから見みて東ひがしの果はて、つまり極東きょくとうだけがまだよく分わからない地域ちいきだったのです。

 

中国ちゅうごくに渡わたったひとりのフランス人じん

19世紀せいきの中なかごろ、欧米列強おうべいれっきょうの圧力あつりょくにより日本にほんが開港かいこうしたように、中国ちゅうごくの皇帝こうていも外国がいこくの侵入しんにゅうを認みとめざるを得えなくなりました。それでヨーロッパ人じんは、モンゴルや中国ちゅうごくの四川省しせんしょうなどの奥地おくちにまで入はいり込こみ、珍めずらしい動植物どうしょくぶつを知しるようになったのです。その中なかで、フランスのペレ・アルマン・ダヴィド神父しんぷは大おおきな役割やくわりを果はたしています。バセ・ピレネー地方ちほうのエスペレという町医者まちいしゃだった父ちちによって育そだてられた彼かれは、すでに幼おさない頃ころから生いきもの好ずきでした。ダヴィドは博物学はくぶつがくについての学術書がくじゅつしょを読よんだり、自宅近じたくちかくの山やまの蝶ちょうや昆虫こんちゅうを採集さいしゅうして回まわったのです。彼かれの主しゅたる目的もくてきは神父しんぷになることだったようで、1850年ねんにラザロ派はといわれる聖せいヴィンセント・ドゥポールの洗礼せんれいを受うけました。一般いっぱんに、この派はを選えらんだこと自体じたい、彼かれの心底しんそこに中国ちゅうごくへ行いきたいという願望がんぼうがあったとみられています。この派はの神父しんぷは海外かいがいに出でて布教活動ふきょうかつどう を行おこなうのがふつうだったからです。

中国行ちゅうごくいきが決きまると、彼かれは植物学しょくぶつがくや動物学どうぶつがくの資料しりょうを収集しゅうしゅうするため、パリ自然史しぜんし博物館はくぶつかんのお墨付すみつきをもらいました。そして1862年ねん、神父しんぷとなったダヴィドは宣教師せんきょうしとして念願ねんがんの中国ちゅうごくの地ちを踏ふんだのです。

ダヴィド神父しんぷは北京ぺきんに着つくと早速さっそくいろいろな生いき物ものを集あつめてパリに送おくりました。博物館はくぶつかんの館長かんちょうアンリ・ミルヌ=エドワルは驚おどろきました。標本ひょうほんがとても素晴すばらしい出来映できばえだったからです。それで館長かんちょうはフランス政府せいふにかけあい、特別とくべつな科学研究かがくけんきゅうをダヴィド神父しんぷがおこなえるよう、フランス政府せいふの許可きょかを取とりつけたのです。

国立自然史博物館こくりつしぜんしはくぶつかん(フランス)

やがて、「幻まぼろしの珍獣ちんじゅう」の発見はっけんへ

神父しんぷは1862年ねんからの12年間ねんかん、中国ちゅうごくに滞在たいざいし、パリ自然史博物館しぜんしはくぶつかんのために3度どにわたる奥地旅行おくちりょこうを行おこなうことができました。神父しんぷは大変たいへんな数かずの標本ひょうほんをフランスに送おくり、素晴すばらしい新種しんしゅを紹介しょうかいしました。58種しゅの鳥とり、100種近しゅちかい昆虫こんちゅう、数多かずおおくの哺乳類ほにゅうるいを発見はっけんしたのです。その中なかには、「金絲猴きんしこう」として知しられるチベットコバナテングザルや、野生やせいでは絶滅ぜつめつしましたが北京ぺきんの皇帝こうていの庭園ていえんに生いき残のこっていた珍めずらしいシカで、現在げんざいでも「ダヴィド神父しんぷのシカ」として知しられるシフゾウが含ふくまれています。生いきもの好すきでなければ、これほどの成果せいかを上あげることはできなかったでしょう。

「ダヴィド神父しんぷの鹿しか」シフゾウ

ジャイアントパンダの発見はっけんは、2度目どめの旅たびの間あいだのことです。この旅たびは四川省しせんしょうや中国ちゅうごくの西部地方せいぶちほう奥地おくち にまでおよび、1868年ねん5月がつから2年余ねんあまりの長ながきにわたりました。神父しんぷの日記にっきに黒白くろしろのパンダそのものの記述きじゅつが登場とうじょうするのは、1869年ねん3月がつ11日にちのことです。その日ひは快晴かいせいで、一人ひとりの学生がくせいを連つれて神父しんぷはホン・チャン・チン渓谷けいこくへ調査ちょうさに出かけました。「その帰かえり道みち、リー何なにがしという、その渓谷けいこくの地主じぬしの家いえで一服いっぷくすることになり、お茶ちゃと菓子かしをご馳走ちそうになる。この異教徒いきょうとのところで、私わたしはかの有名ゆうめいな黒色こくしょくと白色はくしょくのクマの見事みごとな毛皮けがわを見みる。それは大おおきなものだった。驚おどろくべきもので、近ちかいうちその動物どうぶつを届とどけるという猟師りょうしの話はなしには感激かんげきした。どうやら科学的かがくてきに極きわめて珍めずらしいものと思おもえるこの食肉類しょくにくるいを捕とりに、明日あす早はやく出でかけるというのである」と。

次ついで、3月がつ23日にちに彼かれはこう記しるしています。「私わたしのキリスト教徒きょうとである猟師りょうしたちが今日きょう10日とうかぶりに帰かえってきた。小ちいさな白熊しろくま(ぺいしゅん)をもってきてくれたのである。生いきたのを捕つかまえたのに、運はこぶのに都合つごうのいいようにと、残念ざんねんながら殺ころされていた」。そして、「たいへん高たかく売うりつけられた白熊しろくまの子こどもは、真まっ黒くろな四肢しし、耳みみ、それに眼めの周まわりを除のぞいては真まっ白しろである。色いろは過日かじつ、猟師りょうしリーの家いえで調しらべた成獣せいじゅうの毛皮けがわとそっくりである。したがって、これはヒグマ属ぞくUrsusの新種しんしゅに違ちがいなく、単たんにその色いろからだけでなく、毛けの垂たれた足あしからも、またその他ほかの特徴とくちょうからも、そのことは顕著けんちょである」。さらに4月がつ1日ついたちには、「彼かれらは白熊しろくまの成獣せいじゅうをもってきた。この動物どうぶつの頭あたまは極きわめて大おおきく、鼻面はなづらは北京ぺきんのクマのように尖とがってはおらず、丸まるく短みじかい」と書いたのです。

次つぎにバトンが渡わたった研究けんきゅう

ダヴィド神父しんぷは早速さっそく、この発見はっけんをパリの友人ゆうじんに、『Ursus melanoleucus(黒白くろしろのヒグマ)』と名付なづけた動物どうぶつを採集さいしゅうしたと知しらせました。その話はなしはパリ自然史しぜんし博物館長はくぶつかんちょうの息子むすこで、後のちにその後継者こうけいしゃとなる動物学者どうぶつがくしゃのアルフォンス・ミルヌ=エドヴァル教授きょうじゅに伝つたわりました。神父しんぷは教授きょうじゅに標本ひょうほんを送おくりました。教授きょうじゅは骨ほねと歯はを調しらべて、1825年ねんに見みつかっていたレッサーパンダによく似にていることに気きづき、大おおきさこそまったく違ちがうが同おなじ仲間なかまと見みて「Ailuropus melanoleucus(レッサーパンダの肢てあしをもった黒白くろしろの奴やつ)」と名なづけ、次つぎの年としの1870年ねんに学会がっかいに発表はっぴょうしたのです。それからくわしい研究けんきゅうが行おこなわれ、1874年ねんに最初さいしょのジャイアントパンダのくわしい解剖結果かいぼうけっかが発表はっぴょうされました。それには1枚まいの見事みごとな絵えと6枚まいの骨格図こっかくずがついていました。これは、アルフォンス・ミルヌ=エドヴァルが父ちちアンリとの共同きょうどうで1868年ねんから1874年ねんにかけて『哺乳動物ほにゅうどうぶつの博物学的はくぶつがくてき研究けんきゅう』という題名だいめいで出版しゅっぱんした哺乳類ほにゅうるいの博物学はくぶつがくに関かんする一連いちれんの書物しょもつの中なかにおいてでした。若わかいミルヌ=エドヴァルは、ジャイアントパンダが他ほかの食肉類しょくにくるいと似にているところ、異ことなっているところを克明こくめいに分析ぶんせきしました。そして、「ジャイアントパンダが現在げんざいの分類上ぶんるいじょうで占しめる位置いちは、クマとレッサーパンダの中間ちゅうかんである」と結論けつろんしたのです。

 

ジャイアントパンダの標本ひょうほん収集しゅうしゅう競争きょうそう

ジャイアントパンダへの関心かんしんの高たかまり

フランスに遅おくれをとったイギリスでしたが、大英博物館だいえいはくぶつかんでは1890年代ねんだいに2頭とうのジャイアントパンダの標本ひょうほんを手てに入いれています。その標本ひょうほんのひとつはロシアの探検家たんけんかベレゾフスキーとポターニンによって捕とられたもので、もうひとつのオスの方ほうは四川省しせんしょう北西部ほくせいぶでF・W・スタイアンによって雇やとわわれた土地とちの猟師りょうしたちが捕つかまえたものです。

展示てんじして自分じぶんたちの博物館はくぶつかんを有名ゆうめいにしたいと願ねがう欧米人おうべいじんによって、竹林山中ちくりんさんちゅうのジャイアントパンダの棲息地せいそくちの平和へいわは破やぶられました。この珍獣ちんじゅうを求もとめて中国ちゅうごくへと西洋せいようの動物学者どうぶつがくしゃや狩猟家しゅりょうかたちが入はいり込こんだのです。皮肉ひにくなもので、そうなったことがジャイアントパンダの人気にんきを急上昇きゅうじょうしょうさせたのです。

ロンドン自然史しぜんし博物館はくぶつかん(もとは大英博物館だいえいはくぶつかんの一部門いちぶもん)

でも、パンダはなお数十年すうじゅうねんにわたり、人々ひとびとにはもっとも知しられていない動物どうぶつのひとつであり続つづけました。ときどき土地とちの猟師りょうしに捕つかまり、西洋せいようの探検家たんけんかや宣教師せんきょうしに買かい取とられたのですが、パンダを射止いとめようとする外国人がいこくじんハンターの手てに落おちなかったため、かえってこの地球上ちきゅうじょうで最高さいこうの狩猟しゅりょう目標もくひょうとなったのです。


イギリスは学術探検隊がくじゅつたんけんたいを派遣はけん

パンダの発見はっけんから30年近ねんちかくたって、ロンドン動物学会どうぶつがっかいと大英だいえい博物館はくぶつかんは「東亜とうあ動物学どうぶつがく探検隊たんけんたい」を派遣はけんしました。この学術探検がくじゅつたんけんには、日本各地にほんかくちで動物標本どうぶつひょうほんを集あつめ、最後さいごのニホンオオカミを手てに入いれたアメリカ人じんのマルコム・アンダーソンも参加さんかしていたようです。

植物学者しょくぶつがくしゃや動物学者どうぶつがくしゃたちの中なかにアーネスト・H・ウィルソンとワルター・ザピーがいました。ウィルソンは土地とちの住民じゅうみんから集あつめた情報じょうほうをもれなく記録きろくし、パンダがとりわけよくタケノコを食たべると記しるしています。「6月がつから9月末がつまつにかけて生はえ続つづけるタケノコは、丈たけの高たかさと種類しゅるいによっては、内側うちがわは白しろく、食たべてうまい。パンダはこの素晴すばらしい植物しょくぶつに限かぎって食たべるという美食家びしょくかである」と。

ジャイアントパンダとタケノコ


ジャイアントパンダを撃うつ

ルーズベルト探検隊たんけんたい

「パンダを射止いとめる!」と宣言せんげんしてそれを初はじめて成功せいこうさせたのはアメリカ大統領だいとうりょうで熱烈ねつれつな大型動物おおがた狩猟家しゅりょうかとして有名ゆうめいなセオドア・ルーズベルト(愛称あいしょうテディー)の二人ふたりの息子むすこでした。ルーズベルト兄弟きょうだいは大胆だいたんな計画けいかくを立たてました。インドシナから中国西部ちゅうごくせいぶ一帯いったいで狩猟しゅりょう探検たんけんを試こころみ、パンダを撃うつまでは家いえへ帰かえらないと誓ちかったのです。1928年ねん、彼かれらは選えりすぐりのハンターを引ひき連つれて出発しゅっぱつしました。

後のちにニューヨークで出版しゅっぱんした『パンダを追おって』の中なかで、ルーズベルト隊たいはやっとのことでつかんだその勝利しょうりをこう書かいています。「4月がつ13日にちの朝あさ、シーファン山脈さんみゃくの打箭炉いぇんるーの南みなみ、野勒いぇり近ちかくの雪ゆきの中なかにパンダの足跡あしあとを見みつけた。それは雪ゆきの降ふりやむ前まえ に通とおったものだったが、イ族ぞくの一人ひとりが見みつけた兆候ちょうこうからすると最近さいきんのもので、4人にんの土地とちの人ひとを興奮こうふんさせるに十分じゅうぶんであった。2時間半じかんはん、跡あとをつけて、少すこし密林みつりんの開あけたところに出でた。図はからずも近ちかくでチューチューという音おとを耳みみにした。イ族ぞくの一人ひとりが飛とび出だした。40mめーとるも行いかぬうちに、振ふり向 むいて早はやく来こいと合図あいずした。私わたしがそばに行いくと、彼かれは30mめーとるほど先さきの大おおきなエゾマツを指さした。幹みきは空洞くうどうで、そこから白熊しろくまの頭あたまと上半身じょうはんしんが出でていた。あたりを眠ねむそうに見みてから、散歩さんぽに行いくようにゆっくり竹林たけばやしの中なかへ歩あるいていった。テッドが駆かけつけてくると同時どうじに、パンダの消きえた跡あとに向むかって撃うった。どちらの銃じゅうにも手応てごたえがあった。それは年取としとった見事みごとなオスで、この野勒いぇり地方ちほうで獲とったものとしては初はじめての記録きろくであった。この幸運こううんはたいへんな努力どりょくを払はらった結果けっか得えられたのである。お預あずけを食くらった後あと、狩猟しゅりょうの神かみがこちらへ振ふり向むいてくれ、しかもイヌなしで跡あとをつけて、パンダを撃うつことができるような一連いちれんの状況じょうきょうを整ととのえてくれたので、いっしょに撃うつという願ねがってもない幸運こううんが得えられたのである」。


次々つぎつぎとアメリカの探検隊たんけんたいが中国ちゅうごくへ

今いまとなると、昼寝ひるねをしていた罪つみもないパンダ、まったく無抵抗むていこうのパンダがなぜ撃うたれなければならなかったのか、ということになりますが、当時とうじはこの射殺しゃさつがルーズベルト探検隊たんけんたいの偉業いぎょうとされたのです。ルーズベルト隊たいの手てにした完全かんぜんに成長せいちょうしたオスのパンダの皮かわは、探検隊たんけんたいが土地とちの猟師りょうしから得えた別べつの標本ひょうほんといっしょにアメリカへ持 もち帰かえられ、シカゴのフィールド博物館はくぶつかんに誇ほこらしげに展示てんじされました。

シカゴでのこの展示てんじはほかのアメリカの博物館はくぶつかんの羨望せんぼうの的まととなり、ルーズベルトの例れいに負まけるなとばかり、探検隊たんけんたいラッシュを招まねきました。1934年末ねんまつまでに実じつに30頭近とうちかくのパンダが捕獲ほかくされ、そのほとんどがアメリカへと送おくられたのです。


ジャイアントパンダを生いけ捕どる

生いけ捕どりに成功せいこうするまで

1935年ねん1月がつ、アメリカのウィリアム・ハークネスはニューヨークのブロンクス動物園どうぶつえんに生いきたパンダを提供ていきょうしようと、中国ちゅうごくに向むかいました。上海しゃんはいに着ついたのですが、不運ふうんが重かさなって翌年よくねん2月がつ、幻まぼろしのパンダを見みることなく病死びょうししてしまいました。夫人ふじんのルース・ハークネスは夫おっとの探検たんけんを「引ひき継つぐ」といって、その年としの4月がつにアメリカを発たったのです。彼女かのじょを助たすけたのは、アメリカ生うまれの中国人ちゅうごくじんハンター、ジャック・ヤングでした。彼かれはチベットや中国西部ちゅうごくせいぶへの科学探検かがくたんけんでその名なを馳はせており、彼女かのじょに中国ちゅうごくにいる弟おとうとのクェンチンを紹介しょうかいしたのです。

9月がつ、彼女かのじょとクェンチン・ヤングは奥地おくちに向むけ上海しゃんはいを出発しゅっぱつし、ベースキャンプを設営せつえいし、そこから第だい2、第だい3キャンプを設もうけ高地こうちに達たっしました。彼女かのじょはすべて順調じゅんちょうとの知しらせを受うけ、急傾斜きゅうけいしゃの斜面しゃめんを登のぼり、湿地帯しっちたいを越こえ、竹たけの密林みつりんをかき分わけ、残雪ざんせつに足あしを取とられ、高たかさ9~12mめーとるもあるシャクナゲのブッシュをかき分わけて、11月がつ8日ようかの夕方ゆうがた、疲労困憊ひろうこんぱい、全身ぜんしんびしょ濡ぬれになってようやくにして第だい3キャンプに到達とうたつしました。翌朝よくあさ、彼女かのじょとクェンチン、それと土地とちの猟師りょうしたちは、罠わなを調しらべに出発しゅっぱつしました。やがてパンダを見みかけ、猟師りょうしたちは竹たけの密林みつりんに突進とっしんして行いきました。ルースとクェンチンがそこに残のこっていました。

「私わたしたちはしばらく耳みみを澄すませ、竹たけがまばらになり、数本すうほんの大木たいぼくに通つうじる方ほうへと数すうmめーとる前進ぜんしんした。クェンチンがふと立たち止どまった。彼かれはほんの一瞬いっしゅんじっと耳みみを澄すませてから、私わたしが追おいつけないほどの速はやさで進すすみ出だした。垂たれ下さがって濡ぬれた小枝こえだ越ごしに、彼かれが大おおきな朽くちた木きのそばにいるのがぼんやり見みえた。あたりがよく見みえず、身動みうごきもできなかった。古ふるい枯かれた木きのあたりで赤あかん坊ぼうの泣なく声こえがした。クェンチンが私わたしのところへ来きた。彼かれの両手りょうてには、白熊しろくまのモグモグ動うごく赤あかん坊ぼうがあった」と、彼女かのじょは後のちに述のべています。パンダを初はじて腕うでに抱だいた感動かんどうを、「小ちいさな黒白しろくろのボールは、私わたしの上着うわぎに鼻はなをこすりつけ、突然とつぜん、幼おさない本能ほんのうから私わたしの胸むねをまさぐった」と書かきしるしています。


アメリカに渡わたったジャイアントパンダ

まだ眼めの開ひらいていないこの小ちいさな生いき物ものこそが、生いきたまま欧米おうべいに渡わたった最初さいしょのパンダでした。それは“スーリン”と名付なづけられ、数ヶ月後すうかげつごには20世紀せいきにおいてもっとも有名ゆうめいな動物どうぶつになったのです。ちなみに「スーリン」とは名めいハンターであるジャック・ヤングの奥おくさんの名なであり、「とても美うつくしいものの片鱗へんりん」の意味いみです。

ジャイアントパンダは何なんの仲間なかま?

くり返かえされる論争ろんそう

ジャイアントパンダが発見はっけんされたとき、フランスのミルヌ=エドヴァルは[ ジャイアントパンダが現在げんざいの分類上ぶんるいじょうで占しめる位置いちは、クマとレッサーパンダの中間ちゅうかんである」と結論けつろんしました。そして、アライグマの仲間なかまとしたのです。しっぽがほとんどなく、大形おおがたでクマにそっくりのジャイアントパンダが、タヌキのような小形こがたのアライグマの仲間なかまだというのですから、世界中せかいじゅうが驚おどろきました。しかし、1891年ねん、イギリスのフラワーとライデッカーは形態学的けいたいがくてきに調査ちょうさして、ジャイアントパンダをクマ科かに、レッサーパンダをアライグマ科かとしたのです。それからです、論争ろんそうは。ジャイアントパンダの分類学的ぶんるいがくてき地位ちいは年としごとと言いってもよいほどに、変かわったのです。

アライグマ

1921年ねんには、食肉類しょくにくるいの分類ぶんるいの専門家せんもんかであるイギリスのポコックが、ジャイアントパンダとレッサーパンダをそれぞれ独自どくじの科かとして、混乱こんらんの解決かいけつを計はかりました。1956年ねんにレオネとヴィエンスは血精けっせいの研究けんきゅうからクマ科かだと主張しゅちょうしました。また、1964年ねんにはシカゴのデービスはくわしい解剖かいぼうにもとづいてクマ科かに分類ぶんるいしました。

しかし、それでも骨格こっかく、内臓ないぞう、耳みみの骨ほねの構造こうぞう、脳のう、血液けつえきなどが比較ひかくされるたびに、「クマだ」「いやアライグマだ」といった意見いけんが出でて、混乱こんらんはさらにひどくなってしまいました。

これは今いまでも同おなじで、イギリスのコーベットらの分類ぶんるいではジャイアントパンダ科かとしていますが、DNAでぃーえぬえーによる分類ぶんるいの信奉者しんぽうしゃらはクマ科かとする意見いけんです。


はたしてパンダ類るいはクマ科かとアライグマ科かのどちらに似にている?

ジャイアントパンダとレッサーパンダを除のぞくと、クマ類るいとアライダマ類るいは誰だれが見みてもはっきり違ちがっています。アライグマ科かにはタヌキに似にたアライグマのほか、アナグマのようで鼻はなの長ながいハナグマ、ジャコウネコのようなカコミスル、キツネザルのようなキンカジューなど、まるで姿すがたの違ちがうものが含ふくまれています。しかし姿すがたこそさまざまでも、これらはみな共通きょうつうの祖先そせんから分わかれて進化しんかしてきたごく近ちかい親類しんるいだと思おもわれます。その証拠しょうこの一ひとつに染色体せんしょくたいの数かずがあります。染色体せんしょくたいというのは細抱さいぼうの核かくの中なかにある糸いとのような形かたちのものですが、その数かずがアライグマのなかまでは、どれも38本っぽんなのです。染色体せんしょくたいの数かずはイヌ科かでは42~78本ほん、イタチ科かでは30~64本ほんといろいろですから、科かの特徴とくちょうになるとは限かぎりません。でもその数かずがどれも同おなじだというのは、互たがいに血縁けつえんが近ちかいことを示しめしていると考かんがえてよいでしょう。いっぽうクマ科かではずっと多おおく、マレークグマ、ツキノワグマ、アメリカグマでは74本ほんです。そして、レッサーパンダが36本ほん、ジャイアントパンダが42本ほんです。

レッサーパンダは手足てあしや指ゆびの形かたち(第だい3指しが最長さいちょう)、尾お(体からだの半分はんぶん以上いじょうもある)、歯はの大おおきさの順序じゅんじょ、裂肉歯れつにくしの出でっ張ぱりの数かず(5個こ、下顎したあごの臼歯きゅうしの数かず(2対つい)、腎臓じんぞうのつくり、前脚まえあしの二にの腕うで、つまり上腕骨じょうわんこつに内側上窩孔ないそくじょうかこうという特別とくべつの孔あながあることなどはアライグマと同おなじです。しかしレッサーパンダは、耳みみの骨ほねの前まえあたりに翼蝶管よくちょうかんと呼よばれる孔あながある点てん、第だい2前臼歯ぜんきゅうしに根ねが3本ぼんもある点てん(アライグマ科かでは1~2本ほん)、肛門こうもんがマングースのように腺せんのある窪くぼみの中なかに開ひらいている点てん、陰茎いんけいがネコ類るいのように短みじかくて、後うしろに向むかい、陰茎骨いんけいこつも短みじかいという点てんでアライグマと非常ひじょうに異ことなっています。

レッサーパンダ

ジャイアントパンダは手足てあしや指ゆびの形かたち(第だい2、3指しがほぼ同おなじ長ながさ)、尾お(極きわめて短みじかい)、歯はの大おおきさの順序じゅんじょ、下顎したあごの臼歯きゅうしの数かず(3対つい)、腎臓じんぞうのつくりなどはクマ科かと同おなじです。しかし、裂肉歯れつにくしには山やまが5個こあり、翼蝶管よくちょうかんがなく、上腕骨じょうわんこつに内側上窩孔ないそくじょうかこうがあることなどはクマと違ちがっていて、アライグマと同おなじです。そして、陰茎いんけいが小ちいさい点てん、そしてそれが後うしろに向むかっている点てん、陰茎骨いんけいこつが短みじかい点てん、手首てくびの骨ほねのうち親指おやゆびの側そばの種子骨しゅしこつが長ながくなっている点てん(第だい6番目ばんめの指ゆびとなっている)、腎臓じんぞうのつくり、つまり右側みぎがわの精巣静脈せいそうじょうみゃくが下大静脈かだいじょうみゃくまたはそれの枝えだに続つづいている点てん(アライグマ、クマ類るいでは右側みぎがわの精巣静脈せいそうじょうみゃくは右側みぎがわの腎静脈じんじょうみゃくに続つづく)などは2種しゅのパンダに共通きょうつうしています。裂肉歯れつにくしの山やまの数かずや内側上窩孔ないそくじょうかこうがあることなども共通きょうつうしていますが、これはアライグマ科かにもみられる特徴とくちょうです。

これでジャイアントパンダの分類ぶんるいがいかに困難こんなんかが分わかろうというものです。しかし2種しゅのパンダは少すこし違ちがいがありますが、クマ科かやアライグマ科かのものとはずっと違ちがうということが分わかります。ここで重要じゅうようなのは化石かせきから推定すいていした系統けいとうです。

食肉類しょくにくるいの祖先そせんはミアキス(Miacis)と呼よばれる小形こがたないし中形ちゅうがたの獣けもので、今いまから約やく5,500万年前まんねんまえの始新世ししんせい前期ぜんきに出現しゅつげんしましたが、ドイツのテニウスによれば、クマ科かとアライグマ科かは、およそ3,700万年前まんねんまえの漸新世ぜんしんせいの初はじめ頃ごろにはすでに分わかれていたといいます。レッサーパンダの祖先そせん はシバナズア(Sivanasua)と呼よばれるイタチに似にた小獣しょうじゅうで、およそ2,500万年前まんねんまえの中新世ちゅうしんせいの初はじめに出現しゅつげんしました。それより古ふるい化石かせきは今いまのところ発見はっけんされていませんが、テニウスは形態けいたいからみてそれはアライグマ科かから分岐ぶんきしたものと考かんがえています。シバナズアの子孫しそんは、アライグマの祖先そせんたちがアメリカ大陸たいりくに棲すみついてそこで進化しんかをとげたのに対たいして、ヨーロッパに棲すみついた後あとにアジアまで分布ぶんぷを広ひろげましたが、アメリカまでは移住いじゅうできませんでした。おそらくこの仲間なかまが進化しんかし、あるものが大形化おおがたかし、そしてジャイアントパンダが出現しゅつげんしたのだろう、と考かんがえられるのです。

一説いっせつには700万年前万年まえころの鮮新世せんしんせい初期しょきにジャイアントパンダの原型げんけいがおり、それから巨大化きょだいかしたといいます。でも、それを明確めいかくに示しめす化石かせきはまだ出でていません。おそらくユーラシアのアライグマの系統けいとうは一時的いちじてきには繁栄はんえいしたものの、各地かくちで次第しだいに絶滅ぜつめつし、現在げんざい残のこっているのがレッサーパンダとジャイアントパンダの2種しゅなのではないでしょうか。

こうしてみるとジャイアントパンダはレッサーパンダと共ともにヨーロッパを故郷こきょうとするジャイアントパンダ科かとするのが適切てきせつのようです。クマ科かもアライグマ科かも北きたアメリカを故郷こきょうとするもので、繁栄はんえいした年代ねんだいもパンダ類るいとは違ちがうように思おもえるのです。ただ、系統けいとうに従したがった連続的れんぞくてきな化石かせきがたくさん発見はっけんされないと、真しんの答こたえは得えられないことは確たしかです。いずれにしても2種しゅのパンダはクマでもアライグマでもない、ということですから、今いまのところはパンダの仲間なかまとしてひとつ科かを作つくっておくのが良よいと思おもうのです。

アメリカの偉大いだいな動物学者どうぶつがくしゃE.コルバートはこう述のべています。「その分類学的ぶんるいがくてき地位ちいを巡めぐって議論百出ぎろんひゃくしゅつしているが、ジャイアントパンダの方ほうは自分じぶんの存在そんざいが原因げんいんで動物学上どうぶつがくじょうの論争ろんそうが起おこっているなどとはつゆ知しらず、四川省しせんしょうの山奥やまおくで静しずかに生いきているのである」と。

木きの上うえで休やすむ子こどものパンダ

 

数かずを増ふやせ!

そもそも数かずが少すくないジャイアントパンダ

ジャイアントパンダは発見はっけんされたときから非常ひじょうに数かずが少すくない動物どうぶつでした。おそらく大形おおがたの肉食獣にくしょくじゅうは棲すむことが難むずかしい、つまりは入はいってこない竹林ちくりんという特別とくべつな環境かんきょうで生いき延のびた動物どうぶつだから、もともと数かずが少すくないのでしょう。

自然保護活動しぜんほごかつどうが盛さかんになろうとしたとき、世界せかい自然保護しぜんほご基金ききん(WWFダブリューダブリューエフ)がシンボルマークとしてジャイアントパンダを選えらんだのも、1961年ねんの設立当初せつりつとうしょちょうどにロンドン動物園どうぶつえんへと中国ちゅうごくからパンダがやってきたこともあって、強力きょうりょくで分わかりやすいシンボルが必要ひつようだと考かんがえていたピーター・スコット卿きょうらがジャイアントパンダを世界せかいの人々ひとびとを惹ひき付つける可愛かわいらしい珍獣ちんじゅうと思おもい至いたったからなのです。

WWFの資金援助しきんえんじょで世界各地せかいかくちで動物保護どうぶつほごのための研究けんきゅうが行おこなわれるようになりましたが、肝心かんじんのパンダにはなかなか手てが届とどきませんでした。政治的せいじてきな問題もんだいもあったのですが、科学的かがくてきな研究けんきゅうは1970年代ねんだいに入はいってからでした。中国政府ちゅうごくせいふが真剣しんけんに保護ほごに取とり組くみ始はじめたのは、1970年代ねんだいの中なかごろにパンダの棲息地せいそくちである四川しせん、陝西せんせい、甘粛かんしゅくの自然保護しぜんほごの仕事しごとがよく行おこなわれず、森林しんりんが大面積だいめんせきにわたって伐採ばっさいされ、環境かんきょうが急激きゅうげきに変かわり、「ヤダケ」とも呼よばれる箭竹せんちくが広範囲こうはんいにわたって花はなを開ひらいて枯かれたために、パンダが大量たいりょうに死亡しぼうし、発見はっけんされた死体したいだけでも138頭とうあったという新華社しんかしゃの報道ほうどうがあってからのようです。このころの推定すいてい棲息 数せいそくすうは約やく1,000頭とうとされていました。


本格的ほんかくてき
な繁殖計画はんしょくけいかくのスタート

パンダの保護ほご、研究けんきゅう、そして繁殖はんしょくセンターの設立せつりつなどには莫大ばくだいな資金しきんが必要ひつようです。そこで考かんがえ出だされたのが国外こくがいへパンダを貸かし出だしてお金かねを集あつめるという方法ほうほうであり、一方いっぽうで野生やせいのパンダを調査ちょうさし、山やまで保護ほごされたパンダに人工授精じんこうじゅせいを行おこなうなどしてパンダを増ふやすという計画けいかくが実施じっしに移うつされたのです。この計画けいかくは1980年代ねんだいからスタートし、1989年ねんには四川省しせんしょうの成都動物園せいとどうぶつえんで初はつの人工授精じんこうじゅせいが成功せいこうしました。

成都せいとジャイアントパンダ繁殖はんしょく研究けんきゅう 基地きち

とにかくパンダの数かずを増ふやすことに重点じゅうてんが置おかれ、1986年ねんにイギリスのロスリン研究所けんきゅうしょで成功せいこうしたクローン羊ひつじの成功例せいこうれいを取とり入いれてパンダのクローンを作つくり出だす研究けんきゅうもなされました。そして1997年ねんには世界初せかいはつのパンダの体外受精たいがいじゅせいに成功せいこうしています。

繁殖はんしょく研究施設けんきゅうしせつも次々つぎつぎに建設けんせつされ、2002年ねんには四川しせんや成都せいとなど5ヶ所かしょとなり、93頭とうが飼育しいくされるようになりました。このほか北京ぺきん動物園どうぶつえん、上海しゃんはい動物園どうぶつえんをはじめ計けい23の動物園どうぶつえんで75頭とうが飼かわれたのです。

一方いっぽうで減へらない密猟みつりょう

こうした努力どりょくの裏うらで密猟みつりょうも絶たえませんでした。2003年ねん、中国中部ちゅうごくちゅうぶの重慶市じゅうけいしで、厳重げんじゅうな保護下ほごかにあるはずのパンダが殺ころされ、毛皮けがわが密売みつばいされていたことが分わかり、公安当局こうあんとうきょくが容疑者ようぎしゃ6人にんを逮捕たいほしたというのです。事件じけんが発覚はっかくしたのはその前年ぜんねんの11月がつ。犠牲ぎせいとなったのは推定年齢すいていねんれい1歳半さいはんのパンダで、体長たいちょうは80cmせんちめーとるほど。四川省しせんしょうの山地さんちで農民のうみんに見みつかり、驚おどろいて木きの上うえに登のぼったところを猟銃りょうじゅうで撃うたれたもので、最初さいしょに売うり渡わたされた時ときの毛皮けがわの値段ねだんは2,000 元げん(約やく3万円まんえん)で、数人すうにんの密売人みつばいにんの手てを経へて最後さいごは55万元まんげん(約やく825万円まんえん)に跳はね上あがっていたそうです。公安当局こうあんとうきょくがタクシーのトランクにパンダの毛皮けがわを積つんで持もち出だそうとしていた密売人みつばいにんを逮捕たいほしたというものです。この撃うたれたパンダも棲息場所せいそくばしょを求もとめてうろついているうちに畑はたけに出でてきてしまったのでしょう。奥地おくちの開発かいはつが進すすみ、貧富ひんぷの差さが大おおきくなってきていますが、この差さが縮ちぢまらない限かぎり密猟みつりょうはなくならないのだと思おもいます。

野生やせいに戻もどす

野生化計画やせいかけいかくのスタート

皮肉ひにくにもこの密猟事件みつりょうじけんと同おなじ2003年ねん、研究けんきゅうセンターで増ふやされたパンダの野生化やせいか計画けいかくが四川省しせんしょうでスタートしました。人工飼育じんこうしいくパンダは生殖能力せいしょくのうりょくが極端きょくたんに低ひくく、自然交配しぜんこうはいができる雄おすは10%未満ぱーせんとみまん、妊娠可能にんしんかのうな雌めすも24%ぱーせんとに過すぎないことが分わかったからです。確たしかに、人工授精じんこうじゅせいなどを繰くり返かえしているわけにはいきません。パンダは野生動物やせいどうぶつであって、ウシのような家畜かちくではないからです。研究けんきゅうセンター生うまれのパンダのオス1頭いっとう“祥祥(シアンシアン)”が野外やがい飼育場しいくじょうに放はたなたれ、単独生活たんどくせいかつや天然てんねんの食たべ物ものを自分じぶんで探さがす能力のうりょくをつけさせるための訓練くんれんに入はいったのです。野外やがい飼育場しいくじょうは、中国政府ちゅうごくせいふが約やく1億おく2,000万元まんげん(約やく18億円おくえん)を投とうじて整備せいびしたもので、敷地面積しきちめんせきは約やく2万㎡まんへいほうめーとる、食用しょくようとなる天然てんねんのタケをはじめ4,000種以上しゅいじょうの植物しょくぶつがあり、施設育しせつそだちのパンダが本能ほんのうを取とり戻もどすための「原始的げんしてきな環境かんきょうを復元ふくげんした」ものだそうです。うまくいけば最終的さいしゅうてきには自然しぜんの山やまに放はなす計画けいかくです。

2006年ねん6月がつ、3年間ねんかんの野生化やせいか訓練くんれんを終おえたパンダの“祥祥(シアンシアン)”が大自然だいしぜんへ戻もどされる日ひが来きました。2歳さいの時ときに野生化やせいか訓練くんれんの対象たいしょうに選えらばれ、トレーニングを通とおして、野生やせいでの生存せいぞんが十分可能じゅうぶんかのうなパンダに成長せいちょうし、巣作すづくりや餌えさの選えらび方かた、マーキング、縄張なわばり行動こうどうなど「本能ほんのう」を習得しゅうとくしたとみられたのです。首くびにはGPSじーぴーえす発信器はっしんきもつけられています。祥祥シアンシアンを放はなす場所ばしょは海抜かいばつ2,700mめーとる以上いじょうある山地さんちで、食用しょくようの竹たけが豊富ほうふ>にある地域ちいきです。新聞しんぶんによれば「祥祥シアンシアンは、ケージの扉とびらが開ひらいた時とき、ややためらうようなそぶりを見みせたが、ゆっくりと足あしを踏ふみ出だした後あとは小走こばしりになり、10mめーとるほど先さきの竹林ちくりんに消きえた」そうです。

ところが翌年よくとしの2月がつ、祥祥シアンシアンが死しんでいたことが分わかりました。専門家せんもんかは、祥祥シアンシアンが野生やせいパンダと縄張なわばりや食たべ物ものを奪うばい合あう中なかで、高たかい場所ばしょから転落てんらく、内臓ないぞうを損傷そんしょうするなどして死しんだとの見方みかたを示しめしました。人工繁殖じんこうはんしょくしたパンダの「自立じりつ」が非常ひじょうに厳きびしいという現実げんじつが証明しょうめいされたのです。


ジャイアントパンダ保護ほごの問題点もんだいてん

2006年ねん11月がつ、重慶じゅうけい森林公安局しんりんこうあんきょくは国家こっか一級いっきゅう保護動物ほごどうぶつパンダの皮かわ2枚まいを、重慶じゅうけい警察けいさつ博物館はくぶつかんに展示てんじする計画けいかくを発表はっぴょうしました。これはパンダの皮かわが違法いほうで売うられているのを発見はっけんし、同公安局どうこうあんきょくが押収おうしゅうしたものとのことでした。パンダの価値かちは黄金おうごんより高たかく、闇市やみいちではパンダの皮かわが1枚まい10万まんドルで売うれるため、パンダを殺ころす連中れんちゅうが手段しゅだんを選えらばなくなっているというのです。

だとすると、どんなにパンダを野生やせいに返かえしても、密猟者みつりょうしゃが喜よろこぶだけだということになるでしょう。

近年きんねんおこなわれた中国全土ちゅうごくぜんどにわたる調査ちょうさでジャイアントパンダは1,590頭とう棲息せいそくすると発表はっぴょうされました。また、イギリスと中国ちゅうごくの科学者かがくしゃグループがパンダの糞ふんからDNAでぃーえぬえーを検出けんしゅつし、個体数こたいすうを推計すいけいする新あらたな方法ほうほうで調査ちょうさしたところ、保護区ほごくにいるパンダの棲息数せいそくすうは実際じっさいには2,500~3,000頭とうに上のぼり、当初とうしょ予想よそうされていた約やく1,600頭とうの倍近ばいちかくに上のぼる可能性かのうせいがあるとする研究結果けんきゅうけっかを発表はっぴょうしました。

しかし、どんなにジャイアントパンダの数かずが多おおくても3,000頭とうということですから、絶滅ぜつめつの恐おそれはまだまだ高たかいといわざるを得えません。大切たいせつなのはパンダの棲息地せいそくちを保全ほぜんすることと、密猟みつりょうしなくても人々ひとびとが豊ゆたかに暮くらしていける社会しゃかいにすることでしょう。人工的じんこうてきにいくらうまく増殖ぞうしょくしても、行動学的こうどうがくてきにもパンダらしさを保たもたなければ、パンダを完璧かんぺきに保護ほごすることはできないというに気きづかなければならないのです。

ジャイアントパンダの母ははと子こ