幻の珍獣ジャイアントパンダの発見
「幻の珍獣 ジャイアントパンダ」といったら、笑うかもしれませんね。日本の動物園に何頭もいるし、見たいときはいつでも見ることができるからです。でも今から150年以上前は、パンダという動物がこの地球上にいるということすら、現地の少数の人々以外、知らなかったのです。
そのころの日本は幕末(江戸時代の末期 )。オランダの船はもとより、ロシア、アメリカ、イギリス、フランスなどの艦隊が来航し、新選組ができたり、坂本竜馬が暗殺されたり、それは騒々しい時代だったのです。欧米の艦隊は日本だけでなく、中国などにもやってきました。大航海時代が終わり、ヨーロッパから見て東の果て、つまり極東だけがまだよく分からない地域だったのです。
中国に渡ったひとりのフランス人
19世紀の中ごろ、欧米列強の圧力により日本が開港したように、中国の皇帝も外国の侵入を認めざるを得なくなりました。それでヨーロッパ人は、モンゴルや中国の四川省などの奥地にまで入り込み、珍しい動植物を知るようになったのです。その中で、フランスのペレ・アルマン・ダヴィド神父は大きな役割を果しています。バセ・ピレネー地方のエスペレという町医者だった父によって育てられた彼は、すでに幼い頃から生きもの好きでした。ダヴィドは博物学についての学術書を読んだり、自宅近くの山の蝶や昆虫を採集して回ったのです。彼の主たる目的は神父になることだったようで、1850年にラザロ派といわれる聖ヴィンセント・ドゥポールの洗礼を受けました。一般に、この派を選んだこと自体、彼の心底に中国へ行きたいという願望があったとみられています。この派の神父は海外に出て布教活動 を行うのがふつうだったからです。
中国行きが決まると、彼は植物学や動物学の資料を収集するため、パリ自然史博物館のお墨付きをもらいました。そして1862年、神父となったダヴィドは宣教師として念願の中国の地を踏んだのです。
ダヴィド神父は北京に着くと早速いろいろな生き物を集めてパリに送りました。博物館の館長アンリ・ミルヌ=エドワルは驚きました。標本がとても素晴らしい出来映えだったからです。それで館長はフランス政府にかけあい、特別な科学研究をダヴィド神父がおこなえるよう、フランス政府の許可を取りつけたのです。
国立自然史博物館(フランス)
やがて、「幻の珍獣」の発見へ
神父は1862年からの12年間、中国に滞在し、パリ自然史博物館のために3度にわたる奥地旅行を行うことができました。神父は大変な数の標本をフランスに送り、素晴らしい新種を紹介しました。58種の鳥、100種近い昆虫、数多くの哺乳類を発見したのです。その中には、「金絲猴」として知られるチベットコバナテングザルや、野生では絶滅しましたが北京の皇帝の庭園に生き残っていた珍しいシカで、現在でも「ダヴィド神父のシカ」として知られるシフゾウが含まれています。生きもの好きでなければ、これほどの成果を上げることはできなかったでしょう。
「ダヴィド神父の鹿」シフゾウ
ジャイアントパンダの発見は、2度目の旅の間のことです。この旅は四川省や中国の西部地方奥地 にまでおよび、1868年5月から2年余りの長きにわたりました。神父の日記に黒白のパンダそのものの記述が登場するのは、1869年3月11日のことです。その日は快晴で、一人の学生を連れて神父はホン・チャン・チン渓谷へ調査に出かけました。「その帰り道、リー何がしという、その渓谷の地主の家で一服することになり、お茶と菓子をご馳走になる。この異教徒のところで、私はかの有名な黒色と白色のクマの見事な毛皮を見る。それは大きなものだった。驚くべきもので、近いうちその動物を届けるという猟師の話には感激した。どうやら科学的に極めて珍しいものと思えるこの食肉類を捕りに、明日早く出かけるというのである」と。
次いで、3月23日に彼はこう記しています。「私のキリスト教徒である猟師たちが今日10日ぶりに帰ってきた。小さな白熊(ぺいしゅん)をもってきてくれたのである。生きたのを捕まえたのに、運ぶのに都合のいいようにと、残念ながら殺されていた」。そして、「たいへん高く売りつけられた白熊の子どもは、真っ黒な四肢、耳、それに眼の周りを除いては真っ白である。色は過日、猟師リーの家で調べた成獣の毛皮とそっくりである。したがって、これはヒグマ属Ursusの新種に違いなく、単にその色からだけでなく、毛の垂れた足からも、またその他の特徴からも、そのことは顕著である」。さらに4月1日には、「彼らは白熊の成獣をもってきた。この動物の頭は極めて大きく、鼻面は北京のクマのように尖ってはおらず、丸く短い」と書いたのです。
次にバトンが渡った研究
ダヴィド神父は早速、この発見をパリの友人に、『Ursus melanoleucus(黒白のヒグマ)』と名付けた動物を採集したと知らせました。その話はパリ自然史博物館長の息子で、後にその後継者となる動物学者のアルフォンス・ミルヌ=エドヴァル教授に伝わりました。神父は教授に標本を送りました。教授は骨と歯を調べて、1825年に見つかっていたレッサーパンダによく似ていることに気づき、大きさこそまったく違うが同じ仲間と見て「Ailuropus melanoleucus(レッサーパンダの肢をもった黒白の奴)」と名づけ、次の年の1870年に学会に発表したのです。それからくわしい研究が行われ、1874年に最初のジャイアントパンダのくわしい解剖結果が発表されました。それには1枚の見事な絵と6枚の骨格図がついていました。これは、アルフォンス・ミルヌ=エドヴァルが父アンリとの共同で1868年から1874年にかけて『哺乳動物の博物学的研究』という題名で出版した哺乳類の博物学に関する一連の書物の中においてでした。若いミルヌ=エドヴァルは、ジャイアントパンダが他の食肉類と似ているところ、異なっているところを克明に分析しました。そして、「ジャイアントパンダが現在の分類上で占める位置は、クマとレッサーパンダの中間である」と結論したのです。
ジャイアントパンダの標本収集競争
ジャイアントパンダへの関心の高まり
フランスに遅れをとったイギリスでしたが、大英博物館では1890年代に2頭のジャイアントパンダの標本を手に入れています。その標本のひとつはロシアの探検家ベレゾフスキーとポターニンによって捕られたもので、もうひとつのオスの方は四川省北西部でF・W・スタイアンによって雇われた土地の猟師たちが捕まえたものです。
展示して自分たちの博物館を有名にしたいと願う欧米人によって、竹林山中のジャイアントパンダの棲息地の平和は破られました。この珍獣を求めて中国へと西洋の動物学者や狩猟家たちが入り込んだのです。皮肉なもので、そうなったことがジャイアントパンダの人気を急上昇させたのです。
ロンドン自然史博物館(もとは大英博物館の一部門)
でも、パンダはなお数十年にわたり、人々にはもっとも知られていない動物のひとつであり続けました。ときどき土地の猟師に捕まり、西洋の探検家や宣教師に買い取られたのですが、パンダを射止めようとする外国人ハンターの手に落ちなかったため、かえってこの地球上で最高の狩猟目標となったのです。
イギリスは学術探検隊を派遣
パンダの発見から30年近くたって、ロンドン動物学会と大英博物館は「東亜動物学探検隊」を派遣しました。この学術探検には、日本各地で動物標本を集め、最後のニホンオオカミを手に入れたアメリカ人のマルコム・アンダーソンも参加していたようです。
植物学者や動物学者たちの中にアーネスト・H・ウィルソンとワルター・ザピーがいました。ウィルソンは土地の住民から集めた情報をもれなく記録し、パンダがとりわけよくタケノコを食べると記しています。「6月から9月末にかけて生え続けるタケノコは、丈の高さと種類によっては、内側は白く、食べてうまい。パンダはこの素晴らしい植物に限って食べるという美食家である」と。
ジャイアントパンダとタケノコ
ジャイアントパンダを撃つ
ルーズベルト探検隊
「パンダを射止める!」と宣言してそれを初めて成功させたのはアメリカ大統領で熱烈な大型動物狩猟家として有名なセオドア・ルーズベルト(愛称テディー)の二人の息子でした。ルーズベルト兄弟は大胆な計画を立てました。インドシナから中国西部一帯で狩猟探検を試み、パンダを撃つまでは家へ帰らないと誓ったのです。1928年、彼らは選りすぐりのハンターを引き連れて出発しました。
後にニューヨークで出版した『パンダを追って』の中で、ルーズベルト隊はやっとのことでつかんだその勝利をこう書いています。「4月13日の朝、シーファン山脈の打箭炉の南、野勒近くの雪の中にパンダの足跡を見つけた。それは雪の降りやむ前 に通ったものだったが、イ族の一人が見つけた兆候からすると最近のもので、4人の土地の人を興奮させるに十分であった。2時間半、跡をつけて、少し密林の開けたところに出た。図らずも近くでチューチューという音を耳にした。イ族の一人が飛び出した。40mも行かぬうちに、振り向いて早く来いと合図した。私がそばに行くと、彼は30mほど先の大きなエゾマツを指した。幹は空洞で、そこから白熊の頭と上半身が出ていた。あたりを眠そうに見てから、散歩に行くようにゆっくり竹林の中へ歩いていった。テッドが駆けつけてくると同時に、パンダの消えた跡に向かって撃った。どちらの銃にも手応えがあった。それは年取った見事なオスで、この野勒地方で獲ったものとしては初めての記録であった。この幸運はたいへんな努力を払った結果得られたのである。お預けを食らった後、狩猟の神がこちらへ振り向いてくれ、しかもイヌなしで跡をつけて、パンダを撃つことができるような一連の状況を整えてくれたので、いっしょに撃つという願ってもない幸運が得られたのである」。
次々とアメリカの探検隊が中国へ
今となると、昼寝をしていた罪もないパンダ、まったく無抵抗のパンダがなぜ撃たれなければならなかったのか、ということになりますが、当時はこの射殺がルーズベルト探検隊の偉業とされたのです。ルーズベルト隊の手にした完全に成長したオスのパンダの皮は、探検隊が土地の猟師から得た別の標本といっしょにアメリカへ持ち帰られ、シカゴのフィールド博物館に誇らしげに展示されました。
シカゴでのこの展示はほかのアメリカの博物館の羨望の的となり、ルーズベルトの例に負けるなとばかり、探検隊ラッシュを招きました。1934年末までに実に30頭近くのパンダが捕獲され、そのほとんどがアメリカへと送られたのです。
ジャイアントパンダを生け捕る
生け捕りに成功するまで
1935年1月、アメリカのウィリアム・ハークネスはニューヨークのブロンクス動物園に生きたパンダを提供しようと、中国に向かいました。上海に着いたのですが、不運が重なって翌年2月、幻のパンダを見ることなく病死してしまいました。夫人のルース・ハークネスは夫の探検を「引き継ぐ」といって、その年の4月にアメリカを発ったのです。彼女を助けたのは、アメリカ生まれの中国人ハンター、ジャック・ヤングでした。彼はチベットや中国西部への科学探検でその名を馳せており、彼女に中国にいる弟のクェンチンを紹介したのです。
9月、彼女とクェンチン・ヤングは奥地に向け上海を出発し、ベースキャンプを設営し、そこから第2、第3キャンプを設け高地に達しました。彼女はすべて順調との知らせを受け、急傾斜の斜面を登り、湿地帯を越え、竹の密林をかき分け、残雪に足を取られ、高さ9~12mもあるシャクナゲのブッシュをかき分けて、11月8日の夕方、疲労困憊、全身びしょ濡れになってようやくにして第3キャンプに到達しました。翌朝、彼女とクェンチン、それと土地の猟師たちは、罠を調べに出発しました。やがてパンダを見かけ、猟師たちは竹の密林に突進して行きました。ルースとクェンチンがそこに残っていました。
「私たちはしばらく耳を澄ませ、竹がまばらになり、数本の大木に通じる方へと数m前進した。クェンチンがふと立ち止まった。彼はほんの一瞬じっと耳を澄ませてから、私が追いつけないほどの速さで進み出した。垂れ下がって濡れた小枝越しに、彼が大きな朽ちた木のそばにいるのがぼんやり見えた。あたりがよく見えず、身動きもできなかった。古い枯れた木のあたりで赤ん坊の泣く声がした。クェンチンが私のところへ来た。彼の両手には、白熊のモグモグ動く赤ん坊があった」と、彼女は後に述べています。パンダを初て腕に抱いた感動を、「小さな黒白のボールは、私の上着に鼻をこすりつけ、突然、幼い本能から私の胸をまさぐった」と書きしるしています。
アメリカに渡ったジャイアントパンダ
まだ眼の開いていないこの小さな生き物こそが、生きたまま欧米に渡った最初のパンダでした。それは“スーリン”と名付けられ、数ヶ月後には20世紀においてもっとも有名な動物になったのです。ちなみに「スーリン」とは名ハンターであるジャック・ヤングの奥さんの名であり、「とても美しいものの片鱗」の意味です。
ジャイアントパンダは何の仲間?
くり返される論争
ジャイアントパンダが発見されたとき、フランスのミルヌ=エドヴァルは[ ジャイアントパンダが現在の分類上で占める位置は、クマとレッサーパンダの中間である」と結論しました。そして、アライグマの仲間としたのです。しっぽがほとんどなく、大形でクマにそっくりのジャイアントパンダが、タヌキのような小形のアライグマの仲間だというのですから、世界中が驚きました。しかし、1891年、イギリスのフラワーとライデッカーは形態学的に調査して、ジャイアントパンダをクマ科に、レッサーパンダをアライグマ科としたのです。それからです、論争は。ジャイアントパンダの分類学的地位は年ごとと言ってもよいほどに、変わったのです。
アライグマ
1921年には、食肉類の分類の専門家であるイギリスのポコックが、ジャイアントパンダとレッサーパンダをそれぞれ独自の科として、混乱の解決を計りました。1956年にレオネとヴィエンスは血精の研究からクマ科だと主張しました。また、1964年にはシカゴのデービスはくわしい解剖にもとづいてクマ科に分類しました。
しかし、それでも骨格、内臓、耳の骨の構造、脳、血液などが比較されるたびに、「クマだ」「いやアライグマだ」といった意見が出て、混乱はさらにひどくなってしまいました。
これは今でも同じで、イギリスのコーベットらの分類ではジャイアントパンダ科としていますが、DNAによる分類の信奉者らはクマ科とする意見です。
はたしてパンダ類はクマ科とアライグマ科のどちらに似ている?
ジャイアントパンダとレッサーパンダを除くと、クマ類とアライダマ類は誰が見てもはっきり違っています。アライグマ科にはタヌキに似たアライグマのほか、アナグマのようで鼻の長いハナグマ、ジャコウネコのようなカコミスル、キツネザルのようなキンカジューなど、まるで姿の違うものが含まれています。しかし姿こそさまざまでも、これらはみな共通の祖先から分かれて進化してきたごく近い親類だと思われます。その証拠の一つに染色体の数があります。染色体というのは細抱の核の中にある糸のような形のものですが、その数がアライグマのなかまでは、どれも38本なのです。染色体の数はイヌ科では42~78本、イタチ科では30~64本といろいろですから、科の特徴になるとは限りません。でもその数がどれも同じだというのは、互いに血縁が近いことを示していると考えてよいでしょう。いっぽうクマ科ではずっと多く、マレークグマ、ツキノワグマ、アメリカグマでは74本です。そして、レッサーパンダが36本、ジャイアントパンダが42本です。
レッサーパンダは手足や指の形(第3指が最長)、尾(体の半分以上もある)、歯の大きさの順序、裂肉歯の出っ張りの数(5個、下顎の臼歯の数(2対)、腎臓のつくり、前脚の二の腕、つまり上腕骨に内側上窩孔という特別の孔があることなどはアライグマと同じです。しかしレッサーパンダは、耳の骨の前あたりに翼蝶管と呼ばれる孔がある点、第2前臼歯に根が3本もある点(アライグマ科では1~2本)、肛門がマングースのように腺のある窪みの中に開いている点、陰茎がネコ類のように短くて、後ろに向かい、陰茎骨も短いという点でアライグマと非常に異なっています。
レッサーパンダ
ジャイアントパンダは手足や指の形(第2、3指がほぼ同じ長さ)、尾(極めて短い)、歯の大きさの順序、下顎の臼歯の数(3対)、腎臓のつくりなどはクマ科と同じです。しかし、裂肉歯には山が5個あり、翼蝶管がなく、上腕骨に内側上窩孔があることなどはクマと違っていて、アライグマと同じです。そして、陰茎が小さい点、そしてそれが後ろに向かっている点、陰茎骨が短い点、手首の骨のうち親指の側の種子骨が長くなっている点(第6番目の指となっている)、腎臓のつくり、つまり右側の精巣静脈が下大静脈またはそれの枝に続いている点(アライグマ、クマ類では右側の精巣静脈は右側の腎静脈に続く)などは2種のパンダに共通しています。裂肉歯の山の数や内側上窩孔があることなども共通していますが、これはアライグマ科にもみられる特徴です。
これでジャイアントパンダの分類がいかに困難かが分かろうというものです。しかし2種のパンダは少し違いがありますが、クマ科やアライグマ科のものとはずっと違うということが分かります。ここで重要なのは化石から推定した系統です。
食肉類の祖先はミアキス(Miacis)と呼ばれる小形ないし中形の獣で、今から約5,500万年前の始新世前期に出現しましたが、ドイツのテニウスによれば、クマ科とアライグマ科は、およそ3,700万年前の漸新世の初め頃にはすでに分かれていたといいます。レッサーパンダの祖先 はシバナズア(Sivanasua)と呼よばれるイタチに似た小獣で、およそ2,500万年前の中新世の初めに出現しました。それより古い化石は今のところ発見されていませんが、テニウスは形態からみてそれはアライグマ科から分岐したものと考えています。シバナズアの子孫は、アライグマの祖先たちがアメリカ大陸に棲みついてそこで進化をとげたのに対して、ヨーロッパに棲みついた後にアジアまで分布を広げましたが、アメリカまでは移住できませんでした。おそらくこの仲間が進化し、あるものが大形化し、そしてジャイアントパンダが出現したのだろう、と考えられるのです。
一説には700万年前ころの鮮新世初期にジャイアントパンダの原型がおり、それから巨大化したといいます。でも、それを明確に示す化石はまだ出ていません。おそらくユーラシアのアライグマの系統は一時的には繁栄したものの、各地で次第に絶滅し、現在残っているのがレッサーパンダとジャイアントパンダの2種なのではないでしょうか。
こうしてみるとジャイアントパンダはレッサーパンダと共にヨーロッパを故郷とするジャイアントパンダ科とするのが適切のようです。クマ科もアライグマ科も北アメリカを故郷とするもので、繁栄した年代もパンダ類とは違うように思えるのです。ただ、系統に従った連続的な化石がたくさん発見されないと、真の答えは得られないことは確かです。いずれにしても2種のパンダはクマでもアライグマでもない、ということですから、今のところはパンダの仲間としてひとつ科を作っておくのが良いと思うのです。
アメリカの偉大な動物学者E.コルバートはこう述べています。「その分類学的地位を巡って議論百出しているが、ジャイアントパンダの方は自分の存在が原因で動物学上の論争が起こっているなどとはつゆ知らず、四川省の山奥で静かに生きているのである」と。
木の上で休む子どものパンダ
数を増やせ!
そもそも数が少ないジャイアントパンダ
ジャイアントパンダは発見されたときから非常に数が少ない動物でした。おそらく大形の肉食獣は棲むことが難しい、つまりは入ってこない竹林という特別な環境で生き延びた動物だから、もともと数が少ないのでしょう。
自然保護活動が盛んになろうとしたとき、世界自然保護基金(WWF)がシンボルマークとしてジャイアントパンダを選んだのも、1961年の設立当初ちょうどにロンドン動物園へと中国からパンダがやってきたこともあって、強力で分かりやすいシンボルが必要だと考えていたピーター・スコット卿らがジャイアントパンダを世界の人々を惹き付ける可愛らしい珍獣と思い至ったからなのです。
WWFの資金援助で世界各地で動物保護のための研究が行われるようになりましたが、肝心のパンダにはなかなか手が届きませんでした。政治的な問題もあったのですが、科学的な研究は1970年代に入ってからでした。中国政府が真剣に保護に取り組み始めたのは、1970年代の中ごろにパンダの棲息地である四川、陝西、甘粛の自然保護の仕事がよく行われず、森林が大面積にわたって伐採され、環境が急激に変わり、「ヤダケ」とも呼ばれる箭竹が広範囲にわたって花を開いて枯れたために、パンダが大量に死亡し、発見された死体だけでも138頭あったという新華社の報道があってからのようです。このころの推定棲息 数は約1,000頭とされていました。
本格的な繁殖計画のスタート
パンダの保護、研究、そして繁殖センターの設立などには莫大な資金が必要です。そこで考え出されたのが国外へパンダを貸し出してお金を集めるという方法であり、一方で野生のパンダを調査し、山で保護されたパンダに人工授精を行うなどしてパンダを増やすという計画が実施に移されたのです。この計画は1980年代からスタートし、1989年には四川省の成都動物園で初の人工授精が成功しました。
成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地
とにかくパンダの数を増やすことに重点が置かれ、1986年にイギリスのロスリン研究所で成功したクローン羊の成功例を取り入れてパンダのクローンを作り出す研究もなされました。そして1997年には世界初のパンダの体外受精に成功しています。
繁殖研究施設も次々に建設され、2002年には四川や成都など5ヶ所となり、93頭が飼育されるようになりました。このほか北京動物園、上海動物園をはじめ計23の動物園で75頭が飼われたのです。
一方で減らない密猟
こうした努力の裏で密猟も絶えませんでした。2003年、中国中部の重慶市で、厳重な保護下にあるはずのパンダが殺され、毛皮が密売されていたことが分かり、公安当局が容疑者6人を逮捕したというのです。事件が発覚したのはその前年の11月。犠牲となったのは推定年齢1歳半のパンダで、体長は80cmほど。四川省の山地で農民に見つかり、驚いて木の上に登ったところを猟銃で撃たれたもので、最初に売り渡された時の毛皮の値段は2,000 元(約3万円)で、数人の密売人の手を経て最後は55万元(約825万円)に跳ね上がっていたそうです。公安当局がタクシーのトランクにパンダの毛皮を積んで持ち出そうとしていた密売人を逮捕したというものです。この撃たれたパンダも棲息場所を求めてうろついているうちに畑に出てきてしまったのでしょう。奥地の開発が進み、貧富の差が大きくなってきていますが、この差が縮まらない限り密猟はなくならないのだと思います。
野生に戻す
野生化計画のスタート
皮肉にもこの密猟事件と同じ2003年、研究センターで増やされたパンダの野生化計画が四川省でスタートしました。人工飼育パンダは生殖能力が極端に低く、自然交配ができる雄は10%未満、妊娠可能な雌も24%に過ぎないことが分かったからです。確かに、人工授精などを繰り返しているわけにはいきません。パンダは野生動物であって、ウシのような家畜ではないからです。研究センター生まれのパンダのオス1頭“祥祥(シアンシアン)”が野外飼育場に放たれ、単独生活や天然の食べ物を自分で探す能力をつけさせるための訓練に入ったのです。野外飼育場は、中国政府が約1億2,000万元(約18億円)を投じて整備したもので、敷地面積は約2万㎡、食用となる天然のタケをはじめ4,000種以上の植物があり、施設育ちのパンダが本能を取り戻すための「原始的な環境を復元した」ものだそうです。うまくいけば最終的には自然の山に放す計画です。
2006年6月、3年間の野生化訓練を終えたパンダの“祥祥(シアンシアン)”が大自然へ戻される日が来ました。2歳の時に野生化訓練の対象に選ばれ、トレーニングを通して、野生での生存が十分可能なパンダに成長し、巣作りや餌の選び方、マーキング、縄張り行動など「本能」を習得したとみられたのです。首にはGPS発信器もつけられています。祥祥を放す場所は海抜2,700m以上ある山地で、食用の竹が豊富>にある地域です。新聞によれば「祥祥は、ケージの扉が開いた時、ややためらうようなそぶりを見せたが、ゆっくりと足を踏み出した後は小走りになり、10mほど先の竹林に消えた」そうです。
ところが翌年の2月、祥祥が死んでいたことが分かりました。専門家は、祥祥が野生パンダと縄張りや食べ物を奪い合う中で、高い場所から転落、内臓を損傷するなどして死んだとの見方を示しました。人工繁殖したパンダの「自立」が非常に厳しいという現実が証明されたのです。
ジャイアントパンダ保護の問題点
2006年11月、重慶森林公安局は国家一級保護動物パンダの皮2枚を、重慶警察博物館に展示する計画を発表しました。これはパンダの皮が違法で売られているのを発見し、同公安局が押収したものとのことでした。パンダの価値は黄金より高く、闇市ではパンダの皮が1枚10万ドルで売れるため、パンダを殺す連中が手段を選ばなくなっているというのです。
だとすると、どんなにパンダを野生に返しても、密猟者が喜ぶだけだということになるでしょう。
近年おこなわれた中国全土にわたる調査でジャイアントパンダは1,590頭棲息すると発表されました。また、イギリスと中国の科学者グループがパンダの糞からDNAを検出し、個体数を推計する新たな方法で調査したところ、保護区にいるパンダの棲息数は実際には2,500~3,000頭に上り、当初予想されていた約1,600頭の倍近くに上る可能性があるとする研究結果を発表しました。
しかし、どんなにジャイアントパンダの数が多くても3,000頭ということですから、絶滅の恐れはまだまだ高いといわざるを得ません。大切なのはパンダの棲息地を保全することと、密猟しなくても人々が豊かに暮らしていける社会にすることでしょう。人工的にいくらうまく増殖しても、行動学的にもパンダらしさを保たなければ、パンダを完璧に保護することはできないというに気づかなければならないのです。
ジャイアントパンダの母と子